村上春樹と透明なわたしたち
(2023年8月のFacebook投稿より)
実家に帰ったおり、父と甥、子どもたちと急遽、本屋にいくことになった。実家から電車でふた駅、さらに30分ほど歩いてたどり着いたショッピングセンターの本屋。そこは、いかにもショッピングセンターっぽい本屋さんでありながら、なかなか凝った取り揃えで、本棚には郷土史の自費出版本なども並んでいた。
そこで久しぶりに村上春樹を手にする※1。彼がこれまであまり語らなかった彼の父についての小冊で、挿絵は大好きな台湾の漫画家、高研さんが手がけていた。
村上さんは、生前、疎遠だった彼の父の足跡、とくに戦時中の足取りを、死後、当時の軍の記録なども調べた上で、この小さな随筆にまとめた。村上さんの父は、この世代の多くの人がそうであったように、軍の命令や戦況によって、思い描いていた人生が大きく変節し、生死がころころと入れ替わる時代を生き抜いた一人だった。
村上さんは、本の中で自分の存在が「手の向こう側が見えるほど」透明だと語る。その儚さは、父や母の人生が、時代の波乱によってほんのすこしでも違っていたら、自分は生まれていなかった、という存在の限りないあやふやさからくる。
戦争がどれだけ悲惨で無意味であったとしても、両親の運命を決定的に変えたのは間違いないし、この悲惨な戦争があったからこそ村上さんがうまれていた、という圧倒的な矛盾。
村上さんとわたしの父は偶然にも同じ年の生まれだ。わたしはショッピングセンターからの本屋から帰り道、古びた駅の年代物のベンチに父と並んで座りながら、ぽつぽつと言葉を交わした。父は子ども時代のことや、父の父、すなわち祖父の戦中のことをすこしづつ語ってくれた。父もまた村上さんと同じように、祖父から当時のことをあまり「聞いていない」。それでも、混沌とした時代の波をかいくぐって祖父がなんとか生き抜いたことは確かだった。
当然、戦争の運命がすこし違っていたらわたしの父が生れて居たかも分からないし、それは、村上さんが感じた存在への不安と同じく、わたし自身の存在にも関わることでもあった。
語られなかった子どもたち
わたしの父や村上さんが大学に入るころ「戦争を知らない子どもたち」という歌が流行った。この歌は流行という以上の議論、今で言えば社会的な炎上をまきおこした。作曲者の杉田さんは、世代としては父や村上さんより少し年上で同時代を生きてきたが、この騒動によりしばらく表立った活動ができなくなった。
戦後生まれの若者たちは、多感な時期を、激しい戦火の余熱を感じながら生きてきた。日常の中にひりひりとその余熱を感じながらも、親からその戦争についてなぜか語られない、という矛盾にずっと苛まれていた。この歌は、戦争を知らずに育った平和な時代への喜びとともに、あれだけのことがあった戦争について親から語られなかったという、この世代が共通する「不自然な沈黙」がアイロニックに響いている。
集団的トラウマの観点では、トラウマの語りうる層はちょうど「ドーナツのような環状」を形成する、と言われている(※2)。トラウマ的事実の近くにいた人ほど、命を落とすか、あるいは圧倒的な悲劇のなかで、その事実を語ることができなくなる。悲劇の中心から離れるほど、事実を客観的に語れるようになり、事実からさらに「遠く」なるほど今度は自分ごととして語れなくなる。(例えば、原爆の語りは爆心地を中心に「ドーナツ状」に位置してるそうだ)
だから、加害者であれ、被害者であれ、強烈な体験を経た当事者のおおくは、戦後から亡くなるまで家族や周りに多くを語ることはなかった。すこし補足すると、これは戦後、戦時のことを語ることができた人が「トラウマとしては軽度だった」ということを意味していない。祖父母の苛烈な戦争体験が、当事者によって語られず、家族の中にトラウマの残渣だけが沈殿していくさまは、父や村上さんの世代では、あたりまえにあった風景だったのかもしれない。
父と母の世代は、自分の存在と戦争とが切っても切り離せないと圧倒的に感じながらも、それがなんであったのかを親から聞かされることもなく、また聞くこともできなかった。
村上さんは、その失われた語りを取り戻すために、この本を書き残したのかもしれない。それは逆説的ではあるけれど、彼が父親を失ったあとだったからこそ、やっとできたこと。(彼は調査を始める前まで、自分の父が華北地方での虐殺に関与した可能性を否定できないでいた)
失われた語りを引き継ぐ
やっと失われた語りを手にした村上さんは、それ裏付けるような、かつて父から告げられた戦時体験を思い起こしつつ、こう言う。
いずれにせよその父の回想は、軍刀で人の首がはねられる残忍な光景は、いうまでもなく幼い僕の心に強烈に焼き付けられることになった。一つの情景として、更に言うなら一つの疑似体験として。言い換えれば、父の心に重くのしかかってきたものをー現代の用語を借りればトラウマをー息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。ひとの心の繋がりとはそういうものだし、また歴史というものはそういうものなのだ。
その本質は<引き継ぎ>という行為、あるいは儀式の中にある。その内容がどのように不快な、目を背けるようなことであれ、人はそれらを自らの一部として引き受けなければならない。もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう
世代間のトラウマにおいては、よくその負の側面を「継承しない」ためにどうしたら良いか、という言説がある。例えば「こんな想いをじぶんの子どもたちに決してさせまい」というふうに。それは、一つの真実としても、また語りえない負の記憶に蓋をする方便としても、良く機能した。村上さんは、父親が語ろうとしなかった語りをあえて掘り起こし、語りの欠けた部分を丁寧に繕う。そうやって決して仲が良かったとは言えない父親の存在をできるかぎり引き継ごうとする。さらに、この記憶を、反戦や平和の”メッセージ”に変換することなく、むしろ世界の存在そのものの基底に置こうとする。
歴史は過去のものではない。それは意識の内側で、あるいはまた無意識の内側で、温もりを持つ行きた血となって流れ、次の世代へと否応なく持ち運ばれていくものなのだ。そういう意味合いにおいて、ここに書かれているのは個人的な物語であると同時に、僕らの暮らす世界全体を作り上げている大きな物語の一部でもある。ごく微小な一部だが、それでも一つのかけらであるという事実に違いはない
一人の人間が、一つのかけらを受け継ぐことは、世界全体にとってどんな意味をもつのだろうか。この議論は集団的トラウマ理論のなかでも時おり取り沙汰される。昨今では個人のトラウマと集団のトラウマ、どちらもがお互いを補いあう存在であるとして、社会学、文学、心理学精神医療、各分野の専門家が垣根を超えて交流がすすんでいる※3。
一滴の雨粒
村上さんも、ひとりひとりが持つ固有のトラウマの物語と、それが集団へと還元されていくようすを雨水のメタファーによって表現している。
言い換えれば我々は、広大な大地に向けてふる膨大な雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかし、その一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的ななにかに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えれられていくからこそ、と。
わたしは、これは戦争の記憶にとどまらないのではないか、と思う。時代を覆う物語、地域にある固有の語り、教科書に書かれた歴史、そういう強固な語りはあったとしても、わたしの中に流れる小さな、でもたしかにあったはずの語りを受け継ぐことが、一つの責務としてわたしに課せられている。誰であれその語りを他人の手に委ねてはいけない、という責務。
わたしの父の物語、わたしの母の物語、2人を通じて聴くわたしの祖父母の物語、それらを直接受け取れる時間は限られているけれど、それでもまだすこし残されている。そして、ふとした時にこうして父や母の話を聞ける関係であることは、なにより恵まれていることなのだろう。それは、おそらくわたしの父や村上さんが彼らの父親たちと最後までできなかったことだから。
※戦争を知らない子どもたち
※1
※2
※3
※終戦月の随筆シリーズ
※別のバージョン